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言葉に宿る人格:翻訳の冒険

日本語とウクライナ語の比較

通訳翻訳舎投稿者
コラム
2025年10月21日

言語について考える by 通訳翻訳舎

日本語では、言葉そのものが人格を映します。話し方、語尾、語彙の選び方、一人称や敬語の使い方――それぞれが話者の社会的立場や感情の揺れを語っています。翻訳の際には、訳者がその「声」をもう一つの言語で再構築しなければなりません。しかし、ウクライナ語では性別や社会的距離を明確に表す語が少なく、原文の細やかなニュアンスがこぼれ落ちやすいです。例えば「俺」と「僕」、「あたし」と「わたし」の違いは、単なる言葉の差ではなく、世界の見え方の差です。本稿では、日本語の一人称と二人称の使い分け、そして敬称接尾辞について考察し、ウクライナ語への翻訳に際してどう工夫するべきかを探ります。

自分をどう語るか――「“я”(ya/ヤー)」の迷宮

日本語における一人称は、自分をどう呼ぶかによって性格や社会的立場、さらには時代背景までも映し出します。物語の中で「俺」と名乗るキャラクターが出てくると、私たちはすぐにその人物を自信に満ちた、やや強気で粗野な青年として想像します。同じように、「うち」と言うと控えめで可愛らしい少女を思い浮かべるでしょう。「僕」は柔らかく誠実な印象を与え、「わたくし」は非常にかしこまった表現ですね。このように、一人称の選択は話者の性別や気質を伝える大きな手がかりになります。

一方、ウクライナ語では一人称代名詞は基本的に я” (ya/ヤー) しかなく、その形も “мені”(私に、meni/メニ) や “мене”(私を、mene/メネ) のように文法的な格によって変わるだけです。この я” には性別や社会的地位、話し方のトーンといった情報が含まれていません。そのため、日本語の「俺」や「あたし」が持つような細やかなニュアンスは、直訳では失われてしまいます。翻訳者はその失われた声を文体や語彙の工夫によって補う必要があります。たとえば、「俺」を使う若い男性なら、スラングや砕けた言い回しを多用し、「ありがとうございます」を「あっざす」と言い換えるなどして、親しみや自信を表現できます。逆に「わたくし」を使う人物なら、丁寧語を多用し、整った文末表現を選ぶことで、高貴さや礼儀正しさを表すことができます。翻訳者は主人公の語り口全体を見渡し、その人物の雰囲気をウクライナ語で再構築することが求められます。

また、古風な一人称が登場することもあります。「わし」は老人が使う一人称で、聞いただけで長い白髭の賢者や武道の師範の姿が思い浮かびます。「吾輩」は『我輩は猫である』の主人公のように、文学的で高貴な響きを持ちます。ですが、若い少女が「吾輩」と言うと、そのアンバランスさが物語に独特の味わいを添えますね。例えばライトノベルと漫画『ゼロから始める魔法の書』の魔女ゼロが「吾輩」と名乗る場面は、彼女の年齢不詳さや高い地位、現代社会から遠く離れていることを暗示しています。こうした語をウクライナ語に翻訳する際には、古代スラブ語の Язь”(yaz’/ヤズィ) のような古風な表現を当てはめることも考えられますが、この単語は現代ウクライナ語では全く使われておらず、特に若い世代には馴染みがありません。また、私がこの語を翻訳した作品は漫画であったため、ページに注釈を付けるスペースがほとんどなく、物理的に脚注を加えることが難しいという事情もありました。したがって、脚注で説明したり、別の表現で古風さや尊大さを示したりする必要がありますね。

さらに、「おいら」という一人称も興味深いです。これは「俺」に近い言葉ですが、語尾の「ら」はもともと複数形の名残であり、このことから ми” (my/ミ)――つまり「私たち」と似ていると感じる人もいるかもしれません。実際、古いウクライナ語では自分を指して ми” と呼ぶことがありましたが、それは王や高貴な人物が自らを「陛下の複数形」で表すためのものでした。現代では科学論文のような形式的な文脈でしかほとんど見られず、会話で自分を ми” と呼ぶと不自然に響きます。ですが、「おいら」は子どもっぽい言い回しであり、少年などが自分を親しみやすく表現するときに使います。そのため、両者の語感は大きく異なり、柔らかさのニュアンスもまったく違います。この違いは言語の歴史と文化的背景の違いを物語っていますね。翻訳者はこうした背景を理解し、必要なら注釈で補足することで、読者に伝わりやすくすることができます。

このように、日本語の一人称にはその人の世界観が宿っており、翻訳の際にはその影響を考慮する必要があります。ウクライナ語の я” には本来情報が含まれていませんが、動詞の活用などで性別やニュアンスを補うことは可能です。翻訳者は、語尾、語彙、文末のリズムを調整しながら、登場人物の声をウクライナ語の読者にも感じてもらえるよう工夫します。

あなたと君のあいだ――「“ти”(ty/ティー)」の境界

二人称の呼びかけは、話者と聞き手の関係そのものを映し出します。日本語では相手を直接「あなた」と呼ぶことはあまり多くなく、代わりに名字に さん を付けるのが一般的です。例えば「岩村さん」と呼ぶことで丁寧さと適度な距離感を保つことができます。親しい間柄では相手の名前を呼び捨てにしたり、ニックネームを使ったりしますが、見知らぬ人には名字や職名が無難ですね。

ウクライナ語では、親しい関係や年下の相手には ти” (ty/ティー) を使い、目上の人や初対面の相手、ビジネスの場面では ви” (vy/ヴィー) を用います。この ви” は本来複数形ですが、丁寧さや敬意を示すため単数の相手にも使われます。日本語の さん 付けに相当する存在と言えるでしょう。学習者は ви” を「あなた達」と勘違いしがちですが、実際には敬称としての役割が大きいのです。

翻訳の際に迷うのは、どの呼びかけを選ぶかという点です。人物同士の親しさや場面のフォーマリティに応じて、適切な二人称を決める必要があります。例えば、小説『52ヘルツのクジラたち』で、村中という男性が主人公の三島に対して「三島さん」と呼びかける場面があります。彼は仕事で三島の家を訪ねているのですが、口調は非常に砕けており、ときに無礼とも取れるほどです。ウクライナ語に訳すとき、この呼びかけを ти” とすべきか ви” とすべきか迷いました。結果として、呼びかけ自体は ти” に統一し、名字+さんの形はウクライナ字で “ミシマさん” と残し、脚注でその文化的意味を説明しました。こうすることで、読者は距離感を感じつつも日本の礼儀作法に触れることができますね。

また、日本語にはさまざまな二人称代名詞があり、それぞれが相手への評価や感情を表します。「あなた」は丁寧ですがやや距離があり、「きみ」は親しみを込めた呼びかけ、「お前」はぞんざいで兄弟や親しい友人同士に使われ、「貴様」は非常に侮蔑的な呼び方です。名字ではなく代名詞で呼ぶこと自体が二人の関係を示すサインになります。相手の名前を知っていても「あなた」と呼び続ければ、冷淡さや拒絶を示すこともあるのです。

こうしたニュアンスをウクライナ語で表現するのは簡単ではありません。 ти”ви” の二つだけでは、日本語の「貴様」や「お前」の侮蔑的な感情、あるいは「きみ」の優しい響きを十分に表せません。そのため、翻訳者は文脈に応じて語彙や語調を工夫します。例えば、乱暴な「貴様、何様のつもりだ」をそのまま ти” と訳すのではなく、「お前、誰だと思っているんだ」といった意味を補った表現にすることで、怒りや侮辱のニュアンスが伝わります。ウクライナ語には豊富な罵倒語があるため、特別な二人称代名詞を使わずとも、文全体に罵り言葉を挿入することで侮辱のニュアンスを表現することもできます。逆に、恋人に向かって「きみ」と呼びかける場面では、ウクライナ語の愛称 сонечко”(太陽ちゃん、 sonechko/ソネチュコ)красуня”(美人さん、krasunya/クラスニャ) のように、優しい呼び名を使うことで甘い雰囲気を再現できます。逆に「あなた」を使うと、文体全体が冷え、距離や拒絶のニュアンスを強めます。

翻訳者は、語尾の使い方、敬語の有無、語彙選択、登場人物の行動描写など、さまざまな要素を総合して二人称のニュアンスを補います。また、日本語で敬語から砕けた口調へと変わる場面では、ウクライナ語でも ви” から ти” に切り替えたり、苗字呼びから名前呼びに変えたりすることで、関係の進展や変化を示します。言葉遣いの変化を丁寧に翻訳することは、登場人物の感情や距離感を伝える上で非常に重要です。

呼びかけの温度計――さん・ちゃん・くんの使い方

日本語には、名前に付ける敬称や親称が豊富に存在し、人間関係の温度を繊細に反映しています。最も広く使われる「さん」は中立的な敬称で、特に名字に付けると丁寧さと敬意を表します。日本語の さん はウクライナ語の ви” に近い役割を持ちますが、ウクライナでは若者同士が互いを敬称で呼ぶ習慣はほとんどありません。高校や大学では友人同士を名前で呼び、先生に対してのみ敬語を使うのが一般的です。そのため、若者が名字に さん を付けて呼び合う状況をそのままウクライナ語にすると、非常にぎこちなく感じられる可能性があります。

このような場合、「くん」や「ちゃん」といった親称が重宝します。「くん」は親しみを込めつつも相手を敬うニュアンスがあり、男性や目下の者に使われます。「ちゃん」は親しい友人や子ども、愛らしいものに対して使われ、女性の名前につくことが多いです。例えば「木村くん」「美咲ちゃん」と言えば、話者との間に温かい関係があることが伝わります。翻訳者としては、これらの接尾辞をそのまま残すことで、日本の雰囲気を読者に感じてもらう方法があります。

ただし、ここで新たな問題が生じます。それは、ウクライナ語における名詞の「格変化」の存在です。日本語では助詞が意味を担うため、名詞の形は変わりませんが、ウクライナ語では名詞が文中で役割に応じて変化します。たとえば名字「木村」をとると、「木村(Кімура、キムラ)」、「木村の(Кімури、キムリゥ)」、「木村に(Кімурі、キムリ)」のように、文法的な機能によって語尾が変わります。

では、「木村くん」をそのままウクライナ語に移すとどうなるでしょうか。理論的には「Кімура-кун、キムラ・クン」「Кімури-куна、キムリゥ・クナ」「Кімурі-куну、キムリ・クヌ」といった形になります。つまり、日本語の呼称を保ちつつも、ウクライナ語の文法に合わせて変化させる必要が出てくるのです。これは一種の妥協であり、翻訳者の立場からすれば常に悩ましい問題です。

さらに、「様」や「先輩」、「先生」といった敬称も翻訳上の課題です。「様」は非常に格式の高い呼び方で、王や貴族、神仏に対して使われます。ファンタジー作品では「王様」「姫様」が登場し、この尊敬の度合いをどう訳すかで作品の雰囲気が変わります。「国王陛下」「王女殿下」と訳す方法もありますが、「オーサマ」「ヒメサマ」といった音写を用いれば、日本的な響きを保てますが、少し不自然なウクライナ語になりますね。だが、先輩や先生の使い方は日本の読者にはよく知られています。「先輩」や「先生」は、直訳したら「сенпай、センパイ」「сенсей、センセイ」となりますが、そのままウクライナ語に持ち込む場合は注釈が必要です。「先生」は医師や弁護士などにも使われ、文脈によって意味が変わります。翻訳者は作品の背景や読者層を考慮し、どの敬称を残し、どこまでウクライナ語に馴染ませるかを決めなければなりません。

おわりに――言葉に宿る人格をどう伝えるか

日本語の人称代名詞や敬称は、単なる言語的要素ではなく、その言葉を話す人の人格や人間関係を映し出す鏡です。翻訳者の仕事は、単に単語を置き換えることではありません。登場人物の性格、関係性、感情の揺れを理解し、ウクライナ語の読者にそれを伝えるための最適な表現を選ぶことです。ときには文法の枠を越え、日本的な接尾辞や語感を残しながら、ウクライナ語として自然に読めるよう工夫する必要があります。また、読者が作品の中で起こる距離の変化や心情の動きを感じ取れるよう、語尾や呼び方の変化を丁寧に反映させなければなりません。

翻訳とは、異なる文化の間で物語の魂を運ぶ仕事です。日本語の豊富な人称表現とウクライナ語の簡潔さのギャップを埋めるのは容易ではありませんが、翻訳者が言葉の背後にある人格や温度を読み取り、それを新しい言語で再現することができれば、読者は原作の魅力を余すところなく楽しむことができるでしょう。その意味で、言葉に宿る人格を守りながら翻訳することは、文化と文化の架け橋をかける創造的な冒険なのです。

著者:A.S(ウクライナ語翻訳者、日本在住XX年)

左に日本人の男女グループ、右にウクライナ人家族がウクライナ国旗を持っている
日本人男女グループ/ウクライナ人家族